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言葉

追悼。ブライダルの開拓者、桂由美さんの言葉。

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2024年4月26日、ブライダル事業のパイオニア、桂由美さんが亡くなりました(享年94)。婚礼衣装の97%が和装だった日本に、花嫁がウエディングドレスを着るという新しい文化を根付かせたファションデザイナーです。そのデザインは、日本にとどまりません。日本の着物の美を取り入れたデザインは「ユミライン」と呼ばれ、日本独自の美が世界基準となりました。

亡くなる4日前に「徹子の部屋」を収録。

5月3日の「徹子の部屋」は、桂さんが亡くなる4日前に収録した様子を放送しました。スタジオには、桂さんがデザインした最新のウエディングドレスが飾られていました。最後まで現役を貫かれたことを知り、驚いた方は多かったのではないでしょうか。

桂由美さんの著書『世界基準の女になる!』から、桂さんの功績を振り返ってみます。

日本人女性に似合うウエディングドレスを。

大学を卒業してパリに留学した桂さんは、いずれ日本でも洋装の結婚式の時代が来ることを確信。「これからの日本は着物ではなく、ウエディングドレスを着て結婚式をする人がどんどん増えると思います。私は、それに一生を賭けています。ぜひデパートの一角に、サロンをつくらせてください!」と、当時ナンバーワンの有名デパートに直訴するも、和装とのカニバリを嫌われ、けんもほろろに断られました。逆に心に火がついた桂さんは、1965年、赤坂に日本初の西洋風のブライダル専門店をオープンさせました。同年には日本初のブライダルショーも開き、1968年にはブライダルの専門書を刊行。当時の日本人になじみのなかった「ブライダル」という言葉を広く浸透させました。

ブライダルとは「花嫁の」という意味。

事業を始めるにあたり、世界各国のブライダル事情を視察した桂さん。どこの国でも、ウエディング(結婚式)は花嫁(ブライド)が中心でした。イギリスやアメリカでもウエディングよりブライダルが主流でしたが、日本ではまだ誰も知らない概念でした。ブライダルショーを開催するとき、もっとわかりやすいネーミングに変えたほうがいいのか迷いましたが、そのまま行ったことが奏功しました。「ブライダル」という新しい言葉に興味を持ったマスコミの取材が殺到し、ショーは大成功を収めました。ここから「ブライダルの桂由美」の歴史が始まります。

ウエディングドレスの世界に「ユミライン」誕生。

1981年にニューヨークで開催されるジャパンファッションフェアに参加することになった桂さん。当時、ケンゾーや三宅一生さんなどの活躍によって日本のファッションは世界に認められつつありましたが、ブライダルファッションは大きく遅れをとっていました。桂さんは「日本の美を世界に発信する」というコンセプトを掲げ、世界的に評価が高かった日本のシルクを使い、当時ほとんどフランス製を使っていた高級レースも国産にこだわり、ジャパンメイドを打ち出しました。日本の美を世界に発信したいという一念が、繊維メーカーさんをはじめとする多くの人の心を動かしたのです。その結果、ニューヨーク・ポスト紙から「衝撃のスマッシングデビュー」「上品さ、清純さ、セクシーさが溶け合って、ほどよいロマンチシズム。甘すぎない大人っぽさがある」という記事が出て、アメリカのバイヤーが反応。多くのアメリカの高級デパートから注文が入りました。着物の良さをドレスに取り入れたデザインは、アメリカで「ユミライン」と呼ばれるようになりました。

人の目は誤魔化せても、自分の目は誤魔化せません。

「人の目は誤魔化せても、自分の目は誤魔化せません」。桂さんの言葉の中で、僕の心に最も深く刻まれた言葉です。「ウエディングドレスなんて一回着たらおしまいだから、見た目がきれいなら、それでいいじゃありませんか。素人には品質までわかりませんよ」。そのようなことを言われたこともあったそうです。たしかに、相手は素人です。何度もウエディングドレスを着ている人ではありませんから、その品質の良し悪しを判断できないでしょう。それでも桂さんは品質に妥協することはありませんでした。一流と呼ばれるものづくりには、この「自分が満足できないものは提供できない」というプロ意識が行き届いているのですね。コピーライターの端くれとして、自分もこうありたいと思います。

「無私の心」が相手を動かす。

1965年に日本初のブライダルショーを開催したとき、桂さんはまだ無名のデザイナーでした。その呼びかけに、入江美樹さん、緑魔子さん、草笛光子さんなど、当時のスター7人が快諾してくれたそうです。なぜでしょう?桂さんは、彼女たちに直接会って「日本のブライダルを変えるショーに出てください」と頼んだそうです。桂さんがブライダルの仕事をはじめたのは、自分が儲けるためでも、有名になりたいからでもありませんでした。純粋に、日本の結婚式を変えたいと願ったからでした。「私のショーに出てください」と頼んでいたら、その後の桂さんはなかったかもしれません。

偉大な方が、また一人、この世を去ってしまいました。桂由美さんのご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げます。

参考文献
桂由美「世界基準の女になる!

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