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電通を退社しました。コピーライターとして、51歳の再出発。

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2024年6月30日、電通を退社しました。1997年4月の入社以来、勤続27年と3カ月。年齢は51歳です。月並みですが、あっという間でした。つい最近、大学を卒業して電通に入ったと思っていたのに、気づいたら電通を辞めることになっていた。このあっという間な感じは、余計なことを考える余裕もないくらい充実していたということだと思っています。せっかくの機会なので、自分の電通人生を振り返りつつ、定年を待たずして退社した理由、これからどうするのかについて、書き残しておきたいと思います。

就職活動の第一志望はビールの会社だった。

就活のときに考えたのは「好きなものをつくってる会社に行きたい」でした。それ以外思いつきませんでした。それなりに人生経験を積んだ今となっては「好きなものを仕事にするよりは、得意なものを仕事にするほうが」とか考えられるのですが、当時はそんなふうに考えられませんでした。その頃大好きだったのがビールです。たしか、アサヒスーパードライがナンバーワンブランドになるかどうかの頃で、「スーパードライもいいけど、キリンラガーの苦味がいい。モルツもいいけど、やっぱりうまいのは黒ラベル」とか言いながら毎晩いろんなビールを数リットル飲んでいました。ビールは無限に飲める体質で、不思議とお腹いっぱいにならず、ビールを飲んでいれば幸せでした。で、受けたのがビールの会社です。面接では「ビールが好きだから、美味しいビールをつくりたいです」「ビール会社を全部受けています」「ビールをつくれるならどこでもいいです」と言いました。全部落ちました。困りました。自分なりに真面目に考えて、正直に気持ちを伝えたのですが。

第二志望はカップラーメンの会社だった。

ビールの次に好きなものは何だろう?カップラーメンです。当時、大学の生協のお湯が出る自動販売機で毎日カップラーメンを食べていた僕です。食べものの中でこんなに美味しいものはないと思っていました。で、カップラーメンをつくっている会社を片っ端から受けました。面接では「カップラーメンが好きだから、美味しいカップラーメンをつくりたいです」「カップラーメンの会社を全部受けています」「カップラーメンをつくれるならどこでもいいです」と言いました。全部落ちました。困りました。自分なりに真面目に考えて、正直に気持ちを伝えたのですが。

第三志望が広告の会社だった。

カップラーメンの次に好きなものは何だろう?CMです。当時、JR東海のクリスマスエクスプレスのCMが流行っていて、ドラマの合間にこのCMが流れると、ドラマよりも引き込まれてしまう自分がいました。なんだこれは?CMってこんなにおもしろくできるんだ!こういうCMをつくれたら幸せだろうな。と思って、広告の会社を片っ端から受けました。業界のことがよくわかっておらず、広告代理店だけでなく、広告制作会社にも片っ端から願書を送りました。面接では「CMが好きだから、おもしろいCMをつくりたいです」「CMの会社を全部受けています」「CMをつくれるならどこでもいいです」と言いました。最初に内定をくれたのが電通でした。自分なりに真面目に考えて、正直に気持ちを伝えて、初めてOKをくれた会社が電通でした。

初任配属はマーケティング局だった。

運よく電通に拾われた僕は、もちろんクリエーティブ局を希望しましたが、初任配属はマーケティング局でした。なんだよ!あの志望動機で採用してくれたから、当然クリエーティブ局にいけると思ったのに!ガックリ来ましたが、ビール会社とカップラーメン会社がダメだった僕を拾ってくれた電通です。文句を言うのはよそうと思って切り替えました。当時は3年目の秋にクリエーティブ転局試験というものがあり、それを目標にしつつ、まずは配属された部署での仕事をがんばることにしました。某飲料メーカーの担当として、ひたすら調査を繰り返し、ファインディングスを出す日々。調査はなんとなくやるものではなく、仮説を検証するためにやるものであること。調査の設計そのものにアイデアが必要であること。などを先輩から教わりました。やってみると、とてもおもしろくて充実した日々でした。

先輩が社内便でコピー講座をしてくれた。

マーケティング局の仕事は楽しかったのですが、3年目のクリエーティブ転局試験に受かるという目標は失っていませんでした。当時、広告批評という雑誌が主催するコピーライター養成講座があり、それに通おうとして先輩コピーライターに相談したところ、「そんなに高いお金を払うくらいだったら、僕が教えます」と言ってくれて、なんと社内便で通信教育してくださったのでした。「広辞苑のキャッチフレーズを最低50本」みたいなお題が社内便で送られてきて、キャッチフレーズ案を返送すると、講評が返ってくるという。自分がいいと思っていた案が全然ダメで、全然いいと思わないけど数合わせでとりあえず出しとくかみたいな案がいいと言われたりして、えー何で?よくわかんないなぁ、コピーって難しいなぁ、という体験でした。いま思うと、あれは新人コピーライターが通る道をリアルに体験させていただいたのだとわかります。この先輩は、コピーライターであれば誰もが知る有名人。当時滅茶苦茶忙しかったはずです。それなのに僕のような後輩に時間を割いてくださったのでした。そのおかげで僕は、転局試験に合格。晴れてコピーライターの名刺を手にするのでした。

コピーライターって、こんなしんどい仕事なの?

コピーライターになって3年くらいは、本当にしんどかったです。打ち合わせにはいつも100本以上のコピーを持っていくのですが、師匠からは「いいのがない。また明日」の連続です。どうしていいかわからなくて、「あのう、何をどう考えればいいのでしょうか?」と質問すると、「それを考えるのがコピーライターの仕事だろうが!」と怒られる。答えがわからない。考え方もわからない。教えてもくれない。自分で試行錯誤するしかない日々。本当にしんどかったですが、いま思えば、この日々が自分の思考力の基礎をつくってくれたのだと思います。後年、師匠が教えてくれました。「人は、自分で見つけたやり方しか身につかない。だから安易に教えることはしなかった」と。僕にも何人か後輩が付きましたが、この教育方針は受け継ぎました。後輩たちもしんどかったと思いますが、今ではみなさん素晴らしいコピーライターとして活躍しています。

仕事って、こんなに楽しくていいのか?

最初はしんどかったコピーライターの仕事も、何年かやるうちにだんだんコツのようなものがわかってきました。ツーカーの仕事でTCCグランプリをいただいたり、東進ハイスクールのCMから生まれた林先生の「今でしょ!」が流行語大賞をとったり、充実したコピーライター人生を送っていました。30代の頃は、仕事ってこんなに楽しくていいのかと思うくらい、毎日楽しくて仕方がなかった記憶があります。ちなみに「今でしょ!」が流行語大賞をとった2013年は、「じぇじぇじぇ」「倍返し」「お・も・て・な・し」など、史上最多となる4つの言葉が大賞に選ばれた年でした。いやー、コピーライターになってよかったな。広告づくりって楽しいな。そう思っていたある日、上司に呼ばれてこう言われました。「福井君、異動です。」

異動先は、広告封印の部署。

異動先の部署は、一言でいうと「広告封印」の部署でした。電通の売上・利益の多くは広告ですが、その広告を禁じ手にして、広告以外で稼ぐことを目的に生まれた実験的な部署でした。第一印象は「なんで俺が?」です。広告がやりたくて電通に入ったし、広告の仕事が大好きだったので、なんで俺が広告を封印されなくちゃいけないんだと。数日間落ち込みました。しかし切り替えの早い僕です。これは「コンフォートゾーンにハマりつつある自分を外に連れ出してあげよう」という会社の愛情なんだと考えました。転職したつもりで、一からがんばろうと。

広告は禁じ手。ではどうするか。思いついた個人的ミッションが「コピーライターの領域拡張」でした。コピーライターはいわゆる広告コピーを考える職業ですが、その能力は広告制作以外の領域でも活かせるのではないか。広告は顧客企業のマーケティングの一部にすぎず、広告以外のマーケティングの場にコピーライターが進出できないだろうか。いやいや、そもそもマーケティングにこだわる必要もないかもしれない。事業戦略や経営戦略の領域にコピーライターが貢献できるとしたら?などなど、いろんな試行錯誤をして、いろんな自主提案をしましたが、そのほとんどは形になりませんでした。3年間くらいは全くといっていいほど稼げず、会社のお荷物になっている感覚で、電通に入って2度目のしんどい時期でした。それでも3年を過ぎたあたりから、少しずつ仕事が増えてきて稼げるようになってきて、「広告以外のコピーライターの居場所のつくり方」がぼんやり見えてきたのでした。

「電通メッセージング・パートナーズ」設立。

広告以外のコピーライターの居場所として立ち上げたのが、電通メッセージング・パートナーズでした。経営トップのメッセージ発信をサポートする社内横断組織です。海外では政治家や経営者のメッセージ発信にプロのライターがつくことは一般的で、日本でも少しずつその流れが増えてきているように感じていました。それまでにも電通には経営者のスピーチライティングをお手伝いしている人はたくさんいましたが、あくまで局所的・属人的な取り組みにとどまっていました。これを組織化しノウハウを磨き、日本企業の企業価値向上に貢献していきたい。そんな考えを担当役員に上申したらあっさり「いいね」とバックアップしてくださいまして、僕は初代代表に。スピーチライティングやパーパス作成など、経営者が発信するメッセージの作成・発信に寄り添うパートナーとして実績を積み重ねてきました。少し話はそれますが「会社や顧客や社会のためになると思うこと」を企画にして上申したことが何度かありましたが、却下されたことがありません。みなさんことごとく応援してくださり、アドバイスをくださったり、人をつないでくださったりしました。電通の大好きなところの一つです。

人が仕事を創り、仕事が人を磨く。

人が仕事を創り、仕事が人を磨く。」この言葉は三井物産で受け継がれている言葉として有名ですが、自分の電通人生を振り返ると、「先人がコピーライターという仕事を創り、コピーライターという仕事が福井秀明を磨いてくれた」と表現することができます。人の気持ちなんて考えられないろくでもない人間だった僕が、少しは人の気持ちを考えられる人間になれたのは、コピーライターという職業に就けたからだと思っています。コピーライターという職業に感謝していますし、僕にコピーライターという職を与えてくれた電通に感謝しています。コピーライターになっていなかったら、僕の人生どうなってたんだろう?考えるだけで恐ろしいです。

辞める人に辞める理由があるように、残る人にも残る理由があるべきだ。

ここ数年、たくさんの仲間が電通を辞めていきました。部長という立場になっていた僕は、動揺しているであろう部員たちにいつも言っていました。「辞める人に辞める理由があるように、残る人にも残る理由があるべきだ」「一番良くないのは、なんとなく残ってしまうこと」。部員たちに伝えているようで、いつも自分に言い聞かせていました。自分は何をするために電通に残っているのか?だとすると、自分はいつまで電通にいるのか?この思考を繰り返すことによって、徐々にではありますが、心の中に独立の芽が育っていったように思います。

70歳くらいまで現役でいたい。

「人生100年時代」というマーケティング臭のする言葉には、あまり踊らされていないほうだと思います。とはいえ日本人の平均寿命は着実に伸びていて、自分もそれなりに長生きする可能性はある。人生の後半、人の厄介になる期間はなるべく短くしたい。大金でなくてもいいから自分の力で稼ぎ、大勢でなくてもいいから人の役に立つ期間をなるべく長くしたい。あとは子どもが大学を出るくらいまでは、仕事をしているお父さんでいたい。子どもが就職活動をするときに、現役の社会人として「その会社はいいと思うぞ」みたいなアドバイスをしてあげたい。具体的には70歳くらいまでは現役のコピーライターでいたい。このような考えに至った時点で、定年まで電通にいるという選択肢はなくなりました。

暇なおじさんとして会社を去る、という恐怖。

それなりに実績のあるコピーライターが、50代中盤からジリジリと仕事を減らしていき、最終的には暇なおじさんとして定年退職する。そんなケースをたくさん見てきました。そして自分もそうなる可能性はけっこうあると思いました。組織では「チャンスは若い人に」という意志が働きますから、それは仕方のないことです。実際自分も若い頃は、そのおかげでチャンスをいただいてきましたし。一方、僕は70歳くらいまで仕事をしたいと思っています。だとすると「暇なおじさんとして定年退職→フリーとして再出発するのでよろしくお願いします」は明らかに悪手です。コピーライター福井秀明としての需要がそれなりにあるうちに、退社独立すべきだと考えました。この話をすると「福井はそんな心配いらないだろう」と言ってくれる人が多いのですが、そういう人は、僕の人生の責任をとってくれるわけじゃないですからね。いろんな人がいろんなことを言ってくださいましたが、最終的には自分の直感を信じることにしました。

辞める準備が、辞める勇気をつくる。

定年まで電通にいないことは決まりました。ではいつ辞めるのか。今すぐ辞める勇気はないし、58歳とかではちょっと遅い気がする。最初に設定したのは55歳でした。なんとなく55歳。でも、なんとなくでも「55歳」という具体的な数字を決めて準備を始めたことで、人生が動き出しました。

まず妻に伝えました。下の子が大学を卒業する70歳くらいまで現役でいたい。だとすると定年まで電通にいないほうがいいと思っている。ひとまず55歳をターゲットにしている。55歳で辞めるといったん収入は激減するけど、フリーとして70歳くらいまでがんばれば、生涯年収はトントンくらいまでいけるかも、みたいなグラフをつくったりして説明しました。ここで妻が賛同してくれたのは大きかったです。あそこで反対されたら、独立はきっぱりあきらめるつもりでした。

辞めて何をするのか。あれこれ考えました。自分の強みは?事業の内容は?顧客は?提供サービスは?一人でやるのか?複数人なのか?価格は?競争力は?持続性は?生成AIとか来てるけど大丈夫か?オフィスは持つのか?社名は?ホームページつくるとしたら何書くの?などなど。最初は「ジムのパーソナルトレーナーの資格をとって、コピーライターとの二刀流はどうか」みたいなことも考えましたが、「それは二刀流じゃなくて、ただの副業だろ?フィールドが違いすぎるし、シナジーが生まれにくくないか?」とか、自分で自分のアイデアにツッコミを入れたりして、だんだんと現実的な方向に収束していきました。いつまでに決めなければならない、という締切がなかったので、気楽に自由に考えられたのが良かったと思います。

あとはお金の勉強をしました。僕はそれまで「投資はギャンブル」だと思い込んでおり、資産のほぼ全てを占める現金を銀行の普通預金に入れていました。会社でやっている確定拠出年金もほぼゼロリスクの金融商品に投資していました。ところがある日、とある後輩から「それは情弱のやること」的な指摘を受け(笑)、話を聞いてみると、投資は全然ギャンブルではなく、ある程度のリスクをとって長期間運用すればかなりの確率で増やしていけることがわかりました。この話をすると長くなるので、ご興味のある方はこちらでどうぞ。結論としては、それまでの貯蓄や退職金などをきちんと運用すれば、独立してもそう簡単に路頭に迷うことはないと。これらの辞める準備が、いつしか辞める勇気をつくっていったのでした。

いつやめるか?今でしょ!

尊敬する経済評論家の山崎元さんの著書『経済評論家の父から息子への手紙』にこんなことが書いてありました。「経済の世界は、リスクを取ってもいいと思う人が、リスクを取りたくない人から利益を吸い上げるようにできている」。株式で稼ぐ生き方を推奨する流れで書かれていたのですが、僕はこれは、株式に限らない普遍的なメッセージだと感じました。適切なリスクを取る側に回らなければ、いつの間にか搾取される側になってしまう、というのは真理だなと。そうだ、リスク取ろう。と思うのでした。

そんなこんなで準備を進めるうちに、当初設定した55歳という数字はあまり意味を持たなくなりました。「いい機会が来たら、いつでも辞めていいかも」という状況がしばらく続きました。そして2024年のある日、いくつかの条件がピタリとはまり、「いつやめるか?今でしょ!」となりました。クライアント業務はもちろんですが、所属する組織の部長であったり、電通社内の大切な仕事もいくつかやらせていただいている中で、いま辞めるのは無責任ではないかという葛藤がありました。それでも、ここは会社より自分を優先して良い最後の機会ではないかと思い、決断しました。51歳。予定より数年早まりましたが、人生が動くときはこういうものかなと思います。

お世話になった電通を外から応援する。

独立してやりたいことは2つ。1つは、電通を外から応援することです。よくわからない大学生を拾ってくれて、コピーライターという職業に就かせてくれて、職業的にも人間的にも育ててくれた電通には、返しきれない恩があります。この恩は忘れません。もし声がかかれば、電通の仕事はこれまで通り全力でやらせていただきます。

電通にいてはできなかったことを。

電通時代は、その看板のおかげで、いくつかの大企業のお役に立つ仕事ができました。それが夢で電通に入り、そういう仕事にやりがいを感じてやってきたわけですが、贅沢なもので、それだけでいいのかと自問自答することが増えてきました。困っている大企業は多いが、中小企業や非営利団体も同じように困っている。でも電通のコピーライターとして仕事をする以上、お役に立てるのはどうしても大企業に限定されてしまいます。これからは、会社の大きさや報酬の多さに関係なく、「困っている会社・困っている人」に自分の技術を提供する機会を増やしていけたらと思っています。困っている人がいつでも相談に来られる存在であること。なるべく早くお困りの原因を特定して解決策を出せること。たとえすぐに解決できなくても、自分と関わることで、困っている人が少し安心できるような、そんな存在になれたらと思っています。イメージは町のお医者さんです。

For patient

記憶が定かではないのですが、20代の頃の話です。土曜日の午後だったような気がします。悪寒がして体温を測ると39℃を超えていました。携帯電話が普及し始めていた頃ですが僕はまだ持っておらず、一人暮らしの家に固定電話はありましたが、タウンページは捨ててしまっていました。つまり病院に連絡する術がない状況。厚着をして家を出た僕は、近所の「たしかあそこに病院があったはず」の場所を巡りました。病院はいくつかありましたが、ことごとく閉まっていました。土曜の午後だし、ダメか。薬局でドリンク剤でも買って帰るかとあきらめかけた時、その病院がありました。「本日の診療は終了」と札がかかっていますが、電気が点いています。まだ人がいる。ダメもとで呼び鈴を鳴らすと人が出てきました。「熱が39℃を超えてまして…」「いいですよ。入ってください」。おそらく看護師さんだと思うのですが、案内されて診察室へ。そこでの先生とのやり取りは覚えておらず、薬の処方箋を書いてくださったのかどうかも覚えていませんが、結論として僕は事なきを得たのでした。ただ、ひとつだけハッキリ覚えていることがあります。帰り際に先生に「診ていただきありがとうございました」とお礼をしたら、全然いいんですよーみたいな感じで。その時、なんの気なしに、先生のデスクの棚に目をやると、名刺くらいの大きさの紙がピンで止められているのが目に入りました。そこには「For patient」と書いてありました。あのお医者さんのような存在になりたい。そんな気持ちが、いつも心の片隅にあります。

長文失礼しました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。書きながら思ったのは、自分はなんて強運の持ち主なんだということです。あのとき電通が拾ってくれなかったら。あのときマーケティング局に配属になっていなかったら。あのとき社内便でコピー講座をしてくれる先輩がいなかったら。あのとき師匠に出会っていなかったら。あのときあのクライアントに出会っていなかったら。あのとき広告封印の部署に異動にならなかったら。あのとき診てくれるお医者さんがいなかったら。どれ一つ欠けても、今の自分はなかったのであり、本当に運のいい電通人生だったと実感しています。お世話になった皆さまへの感謝は忘れずに、このご恩は“Pay it forward”の精神でお返ししていきたいと思っています。何か困ったことがありましたら、お気軽にお声がけください。駆けつけます。

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